tm1725tmchangのブログ

人生の終わりに備えて置く

私の終活

私の終活(7)キリスト者の死

 私は死に臨む時、不安と恐れと孤独と苦痛に、苛まれるかも知れない。しかし、それは病に苦しむ幼子が母の腕の中で病と闘う様の如くである。主イエス・キリストは死に逝く私を孤独に捨て置かれない。

 ステパノが殉教の死を遂げる時に主イエス・キリストはステパノに見えるようにお姿を現され御手を広げて御国へと迎えいれて下さった。キリスト者の死は孤独ではないのである。

 私の臨終に立ち会ってくれる愛する者たちは、私が臨終に立ち会った時にそうであったように、私が息耐えるまで見守る他に何もなし得ないのである。臨終が確認されると妻や子供や孫たちは保ち続けた絆を切られる痛みや悲しみに動揺することであろう。それは、自然な情である。

 私の願いは私の死に逝くさまを見て、神が命の息を引き取られたと悟ってくれることである。神が人知では計り知れない神の御業を行っておられることを悟ることである。神が御力により私の命の息を引き取って下さるのである。

  そして神は主イエス・キリストを信じる者を死人の中から復活させ、霊の体を与え、神の国で生きるものとして下さる。それは、主イエス・キリストが約束しておられることであり確かなことである。

 

ー聖句ー
 「 ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言った。」                        使徒7章55~56節