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人生の終わりに備えて置く

私の終活

私の終活(8)神の国

 神の国は人間の知恵や知識で思い描けない。神の御子イエス・キリストが世に告知され御力によりその一部をこの世で具現された。それを目の当たりにした人たちは驚嘆し神を讃美したのである。

 神の国では、病める者、肢体の不自由な者は、完全に癒されて自由を得る。死んで朽ち果てる肉体は、永遠の生命と霊の体を与えられるのである。そして全ての人が二度と死の力、罪の力に支配されることはないのである。

 私たちの朽ちる体、汚れた体、しぼむ体は主イエス・キリストにより聖化されるのである。従って、私たちは神の国では互いに聖化された姿を見ることになる。

 私は自分を顧みるに、神がこの世で結んで下さった親と子、夫と妻、父と子の絆を豊かな愛と思いやりで紡ぐことに怠慢であったことを告白しなければならない。私は神の庇護の下に生きながらいまだに自己愛から抜け出せないでいる。

 実に私は惨めな人間である。私は主イエス・キリストに出会わなかったら、己の罪に気づかず、悔い改めることもなく死ぬ人間であった。

 私は主イエス・キリストに出会い、救われたことにより、罪人であることを認め、悔い改めの日々を生きて、神の国への復活を信じて死ねる人間に変えられている。実に幸いなことである。しかし私の朽ちる肉体は罪に蝕まれていて死ぬまで罪の悪臭を放ち続けるのである。

 神は主イエス・キリストを信じる者の罪を赦して下さる。朽ちる体を永遠の命と霊の体に変えて下さる。そして神の国へと復活させて下さるのである。私たちは死人の中から復活することにより、朽ちない者とされ、聖なるものに変えられる(聖化)のである。

 神の国に復活して聖化された状態は、私たちの知恵や知識や想像力では計り知れないことである。私たちの願いや想像を膨らませると真実から遠くなるだけである。ゆえに今は聖書に記されていることを信じて満足しなければならない。

 

ー聖句ー 

 「最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。」              

                         1コリント15章52節 

 「 しかし、このことは、「目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神は御自分を愛する者たちに準備された」と書いてあるとおりです。」                      1コリント2章9節                                                             

 「 目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。」                     マタイ11章5節                      

  「 群衆は、口の利けない人が話すようになり、体の不自由な人が治り、足の不自由な人が歩き、目の見えない人が見えるようになったのを見て驚き、イスラエルの神を讃美した。」                    マタイ15章31節                 

 「この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。」          ルカ20章36節                                           

  「死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。」                     マルコ12章25節                              

 「神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。」                     1ペトロ1章3〜5節                                  

 「彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」。 

                         黙示録21章4節