tm1725tmchangのブログ

人生の終わりに備えて置く

父の日に想う77歳の私

 私は自分の終末に備える歳を生きている。両親は戦後の昭和21年開墾をはじめた。父は棚倉町堤の出で名主の次男であった。父は分家にならずに自由な生活を選択した。母は結婚し子供を7人産んだ。怠け者ではなかったけれど、雨や雪で開墾作業が休みになると、花札賭博にのめりこんでいたのである。母の嫁入りの着物は全て父の賭博の支払いで無くなった。それは、開墾に従事するようになってからも続いていたらしい。母の苦労は言語に絶する。父は私にとって怖い存在でしかなかった。

 かくして、私は父の存在に感謝の思いを持てなかった。開墾は並みの苦労ではない。湿地は耕して田んぼにする。米がとれるようになるには3年程かかる。畑は山の木を切り倒し根を掘り起こして作る。全部が手作業であり大変な忍耐と労力を要した。後になって、正直、よくも立派な畑と田んぼにしたものだと、父母、そして、姉夫婦に尊敬の思いをもった。

 小中学校は、開墾地から片道4キロの道程であった。小学一年生には苦労とであった。雪が積もると父や姉が足跡を付けてくれた。9年間一日8キロを歩いたのである。それは大変であったが、今は足腰が鍛えられていて有り難いと思っている。

 父は、酒を飲みすぎて、脳梗塞を発症し下半身不随となった。酒を飲まないと、苦労に耐えられなかったのだろうと思う。開墾は、苦労が実りそれなりに成功した。お米も他の作物も、豊かに収穫できるようになった。姉夫婦が後継者になったのを見て、安心して死んでいったと思っている。逝去は開墾して25年目の70歳であった。今私は両親に感謝することの足りなさに心を痛め詫びている。改めて、有難うございました、と感謝している。

 以上が、私の父の思い出である。姉夫婦が年老いて農作業が出来なくなった。子供たちが、だれも農業を受け継ごうとしなかった。今は、山の中の開墾地に家だけ残っている。開墾地が荒地になるのも家が朽ち果てるのもアッという間である。