tm1725tmchangのブログ

人生の終わりに備えて置く

私の終活

私の終活(10)アダムとエバ 

    聖書は原初の人をアダムとエバの物語を記している。神は塵から人を創造され「命の息」を吹き入れて生きるものとされた。エバはアダムと共に生きる存在としてアダムの肋骨を用いて創られた。そしてアダムとエバは、神の恵み溢れるエデンの園で、園を耕しながら、園の管理人とされていたのである。

    神は人を永遠なる存在として創造されなかった。神は人の生命の終わりを定めて居られたのである。しかし、アダムとエバエデンの園で神の恵みに守られ養われて不自由なく生きていた。人生に終焉あることにも全く不安なく生活を享受していたのである。

   ところがある日、人は蛇に誘惑されて欲を孕み蛇の言葉に従い神の御言葉に背いてしまったのである。神を崇め神の御言葉に従い神から賜る恵みで生きることに満足しなくなったのである。欲望が罪の根源である。欲望の極みは神になろうとすることである。

    これが最初の人アダムとエバの罪であり、全人類が犯す諸々の罪の根源なのである。それが原罪であり親から子へと受け継がれ全人類に及んでいるのである。人間が犯す諸々の犯罪の根である。そしてその罪が死の刺である。その罪が死ぬことの不安となり恐れとなるのである。

    私たち人間は欲がなければ人類の進歩はないと言うほどに欲を必要不可欠なものと考えるほど欲に支配されている。人間の欲望が科学の進歩を推進していると考える人は少なくないであろう。そして、科学の進歩への期待は限りなく大きいのである。科学が進歩すれば、人類の問題は何でも解決すると言わんばかりである。

    しかし、立ち止まって考えると、欲望に支配された科学の進歩は、人を生かすよりも人を死に至らしめ人類を滅亡させる危険を孕んでいる。医学は確かに病を解明し癒すことにおいて進歩している。有り難いことである。しかし永遠に人を生きられるようには出来ない。

   医者は最期に臨終ですと宣言して仕事を終える。死の不安や怖れを取り除いて人生を平安に終わらせることも出来ないのである。私たちは死の意味と死後のことを解明されないかぎり平安に臨終できないのである。それは死んでいく本人だけではなく遺族も同じである。

    昔から、人は死後のことに無関心でいられなかったのである。それは遺体を丁寧に葬ることに表されている。人間は、おぼろげにではあるが、この世で死んだら消滅してしまうのではない、彼岸の世(彼の世)があると望みを持ち続けてきたのである。

   実は、それを明確にして人々に提示するのが、宗教の役割である。私が信じるキリスト教は、聖書により、神について、天地万物について、人間について、救いについて、死について、死後について教え諭している。

 

ー聖句ー

  「 主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」 創世2章7節                                                   

   「 神はアダムに向かって言われた。「お前は女の声に従い 取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。」      創世3章17節                    

 「このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。」ロマ5章12節                                 

   「そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。」   

                         ヤコブ1章15

 「罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」      ロマ6章23節