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人生の終わりに備えて置く

2019-02-01から1ヶ月間の記事一覧

私の終活

私の終活(22)人生の果実 私は終活に際して、私の人生の果実は何だろうと自問自答した。 ある人は人生の果実を地位や名声や財であると語る。しかし、それは主イエス・キリストが実らせて下さる永遠の果実ではない。 主イエス・キリストは、ヨハネ福音書15章…

私の終活

私の終活(21)私の臨終の時 私は死ぬ時のことを考える。私は実際に死ぬのは初めてなので息を引き取られる前後にどうなるのかを知らない。ただ、臨終に立ち会った経験から言えば、息がだんだん粗くなり次第に弱くなる。そして最後の一息を吐くのである。 臨…

私の終活

私の終活(20)神の国に備えられている住まい 主イエス・キリストは父なる神の家(神の国)には住まいがたくさんある、あなたがたの住まいを用意して置くと言われた。私は主イエス・キリストの御言葉で十分である。 霊の体で神の国に復活する私たちのために…

私の終活

私の終活(19)神の国への復活はいつなのか 死人からの復活は主イエスと同じように三日目なのか、息を引き取られると同時になのか、それともイエス・キリストが再臨される世の終りの時なのか、興味は尽きることがない。 しかし、死んだ者には、死後直ちに神…

私の終活

私の終活(18)私の埋葬の遺体と復活の体 私の遺体は葬儀式の後に火葬にされてから墓地に埋葬される。墓の中には骨壺に火葬された骨を納骨して納められる。時が経てば、骨壺の骨は砂のようになり土の塵にかえる。 復活の時は、土の塵となった私の体はどうな…

私の終活

私の終活(17)主イエスの死と復活 私は主イエス・キリストの十字架の死の様を目の前に思い描く。主イエス・キリストは私たちの罪を背負い、十字架で私たち罪人の死を死んでくださった。私たちの罪は贖われ赦されたのである。これが神の愛である。 主イエス…

私の終活

私の終活(16)神の国 人間は、死んだら全て終わりであると考えている人、死後に希望を持っている人、曖昧なままに生きている人、さまざまである。 聖書は、神の国の存在を明記している。そして、主イエスに従う者は死んで葬られた後に、死人の中から復活さ…

私の終活

私の終活(15)死の様 人の死に様は多様である。人の死は老衰だけではない。幼児の死、病死、事故死、戦争による死、自然災害による死等々、多様である。私の息子は幼くして交通事故で死んだ。 私たちは悲惨な死に様を見ると、神は無慈悲である、神は無力で…

私の終活

私の終活(14)最期の一息 私の人生は最期の一息(命の息)を吐いて終わる。そして、私の遺体は墓に埋葬されて俗世から姿を消すことになる。 神が私の死ぬ時を定めて下さる。神だけが人の生と死を決める権威を持っておられるのである。その権威は何人にも与…

私の終活

私の終活(13)私の死 私の死の様は他の人たちと同じである。息は止まり、血液の流れは止まり、身体は冷たくなり硬直し、腐敗し骸骨となる。遺体は腐敗する前に埋葬される。 そして臨終に立ち会う人たちは別離の寂しさと悲しみに襲われるであろう。それは世…

私の終活

私の終活(12)救い主イエス・キリスト 神は人を本来のあるべき状態に戻すために、イエス・キリストをこの世に遣わされた。それがクリスマスである。 イエス・キリストは、この世から出た者ではなく、天地万物の創造主である神の御子であって、神の国から来…

私の終活

私の終活(11)死と復活 私は教会で聖書の証言を説き明かしてきた。最も難しいのは聖書に記されている死と死後を説き明かすことである。この世に生れた者は死ぬことになっている。それは自然に受け入れられることのように思われる。しかしそれは否である。 …

私の終活

私の終活(10)アダムとエバ 聖書は原初の人をアダムとエバの物語を記している。神は塵から人を創造され「命の息」を吹き入れて生きるものとされた。エバはアダムと共に生きる存在としてアダムの肋骨を用いて創られた。そしてアダムとエバは、神の恵み溢れる…

私の終活

私の終活(9)人は何故に死ぬのか この世では人の死ほど一般的なものは他にない。この世に生まれた全ての人が死ぬのである。私もあなたも死ぬのである。 この世での人の営みは様々である。しかし、人の営みは死ぬことで終わるのである。人生の終わり方は死…

私の終活

私の終活(8)神の国 神の国は人間の知恵や知識で思い描けない。神の御子イエス・キリストが世に告知され御力によりその一部をこの世で具現された。それを目の当たりにした人たちは驚嘆し神を讃美したのである。 神の国では、病める者、肢体の不自由な者は…

私の終活

私の終活(7)キリスト者の死 私は死に臨む時、不安と恐れと孤独と苦痛に、苛まれるかも知れない。しかし、それは病に苦しむ幼子が母の腕の中で病と闘う様の如くである。主イエス・キリストは死に逝く私を孤独に捨て置かれない。 ステパノが殉教の死を遂げ…

私の終活

私の終活(6)死に伴う希望 私は牧師の職務で多数の葬儀を執り行った。その度に、聖書を説き明かして遺族に慰めと希望を語った。 聖書は人間の死の意味と死後の希望を記している。主イエス・キリストが死の闇を照らす光となり、死の闇の不安を取り除き、御…

私の終活

私の終活(5)死は不自然なもの 人はなぜ死ぬのだろうか。この問いの答えは哲学も化学も持っていない。宗教だけが答えをもっているのである。それが宗教の存在意義である。 私たちの人生に伴う死と死に対する不安と恐れは若くて勢いのある間、仕事が多忙の…

私の終活

私の終活(4)死に伴う恐れ 私は幼い子供の頃から死ぬことを恐れていた。理由はわからなかった。死人が墓に葬られるのを見たこともない、悪いことをすれば死んだら地獄にいくと脅かされた記憶もないのである。それどころか私の子供時代は、戦争が終わり、生…

私の終活

私の終活(3)終活の本分 終活の本分は、死の意味を知ることであり、死後を知ることであり、死後の復活を確信することである。 誰でも高齢者になれば、自分の死を意識するようになり死後についても考えるようになる。若年時代は死や死後のことを殆ど考えな…

私の終活

私の終活(2)人生の回顧 私は後ろを振り向かないように生きてきた。それは避けていたわけではなく余裕がなかったのである。現役時代はその時々を生き抜くことに精一杯であった。 今は隠退して七六年の歳月を振り返り悲喜こもごもの場面を回顧している。私…

私の終活

私の終活(1)老いの現実 私は平均年齢に達していないが、知力や体力の衰えは明らかに思考や行動に表れているのを認知できる。私は歳相応に衰えるのを抗わないで受け入れようと思っている。しかし、生きている間は、歳相応に心身の健康を維持したい。私は死…