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人生の終わりに備えて置く

私の終活

私の終活(18)私の埋葬の遺体と復活の体 

 私の遺体は葬儀式の後に火葬にされてから墓地に埋葬される。墓の中には骨壺に火葬された骨を納骨して納められる。時が経てば、骨壺の骨は砂のようになり土の塵にかえる。

 復活の時は、土の塵となった私の体はどうなるのだろうか。・・・・。

聖書は、永遠の生命を与えられて復活するときには、永遠の生命に相応しく朽ちず汚れず滅びない霊の体に変えられると記している。

 それはどういうことなのであろうか。永遠の生命を纏う霊の体は、新しく創造されるのではなく、この肉の体が霊の体に変えられるのである。

 私の体の肉は灰となり骨だけが壺の中に納められる。私の肉の体の姿や形は消えて塵にかえり人の目から消え失せる。

 しかし、神は全能の御力により私の肉の体を霊の体に変えて下さるのである。それは人が知り得ない神の奥義である。

 神は永遠の生命に相応しい霊の体に変えて下さり、死人の中から復活させ御国へ迎え入れて下さるのである。

 死人の中から復活された主イエスは、朽ち果てる肉の体ではなく霊の御体に変わっておられた。しかし、弟子たちが目にした御体は墓に葬られた時の御体と同じであった。疑い深い弟子のトマスは御体にある槍の傷跡に指を挿して確かめるように促されたのである。

 しかし、復活の主イエスの御体は霊の体でありました。弟子たちが鍵をかけていた戸を開くことなく家の中にお入りになられた。主イエスの霊の体は、鍵をかけた戸に遮られなかったのである。

 主イエスは、神の国における私たちの有様について霊の体となり天使のようになるのだと言われた。

 それでは、この世で結ばれた夫婦、親子、兄弟の愛の絆は神の国でどうなるのであろうか。地上の絆は肉の思いにより結ばれている。肉の思いは不信、不安、誤解、裏切り、妬み、憎しみ、復讐、意地悪、欲望、自己愛である。これらが撚り合わされた絆である。 

 神の国では、肉による絆が聖化されて霊の絆となるのである。全てが神の御旨により聖なる絆で結ばれるのである。

 

 ー聖句ー

 「復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。」                  マタイ22章30節 

 「つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。」                                                       

                     1コリ15章44節               

 「 死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、」           1コリ15章42節                                                                       

 「 最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。」                  1コリ15章52節                                   

 「 神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。」            ロマ8章29節                                                       

 「 愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。」         1ヨハ3章2節