tm1725tmchangのブログ

人生の終わりに備えて置く

私の終活

私の終活(13)私の死

 私の死の様は他の人たちと同じである。息は止まり、血液の流れは止まり、身体は冷たくなり硬直し、腐敗し骸骨となる。遺体は腐敗する前に埋葬される。

 そして臨終に立ち会う人たちは別離の寂しさと悲しみに襲われるであろう。それは世の習いであり、人間の自然な感情である。

 今日、遺体は火葬場に運び窯で焼き骨を壺に入れて墓に葬る。遺体を焼く窯の扉が閉じられるとき人生最大の空しさに襲われる。参列者は空しい思いで扉の前に立ち留まる。そして、焼きあがった骨が窯から取り出され骨壺に納められる。  

 参列者は骨を拾いながら人生の空しさを極める。しかし葬儀が終われば、人は人生の空しさを日常生活に勤しむことで紛らわせようとするのである。人生はそれを繰り返しているのである。

 しかし、私たち信仰者は愛する者との死別に際して、悲しみに襲われるとしても復活の希望をもって生活を再開する。私たちキリスト者は死人からの復活を信じている。そして神の国での再会の希望もある。

 だから、私の臨終に立ち会って下さる方々には過度に別れの悲しみを持たないようにお願いしたいのである。

 私は臨終の自分を想像する。私は牧師の務めとして臨終の場に立ち会ってきた。しかし、いま私は自分の臨終の様子を父の臨終に重ね合わせながら思い巡らしている。

 私は父の臨終に立ちあえた。父は脳梗塞になり長く半身不随であった。私が駆け付けた時は、すでに息荒く目を閉じていて呼んでも反応しない状態になっていた。

 父の粗い息は苦しそうに思えて見ていられなかった。父はまもなく大きな一息を吐いて動かなくなった。私が記憶している父の臨終の様子である。

 その時、人はこのようにして死んで家族の交わりから消えていくのだと痛感した。しかし兄弟たちは父の臨終を見て悲しみ嘆かなかった。父はこれで苦痛から解放されて楽になるのだとの思いで臨終に立ち会っていたのである。医者が来て確認し臨終を宣言し死亡診断書を書いてくれた。

 

ー聖句ー

 「そこで、わたしは主にあっておごそかに勧める。あなたがたは今後、異邦人がむなしい心で歩いているように歩いてはならない。」。

                        エペソ4章17節