tm1725tmchangのブログ

人生の終わりに備えて置く

私の終活

私の終活(9)人は何故に死ぬのか

 この世では人の死ほど一般的なものは他にない。この世に生まれた全ての人が死ぬのである。私もあなたも死ぬのである。

 この世での人の営みは様々である。しかし、人の営みは死ぬことで終わるのである。人生の終わり方は死ぬこと以外にないのである。

 人の死に様はそれぞれにより異なる。人が死ぬのは生まれた順番でない。先に生まれた者が老衰となり死んでこの世を去るのは納得のいくことである。しかし、みな、この世で年を重ねて生きて死ぬとは限らない。若くして病死、事故死、殺人等により世を去るものがいる。先の者が後になることがある。私の息子は三才半で事故により死んだ。

 何故に、人は死ぬのであろうか。この問に聖書は、先祖アダムが罪を犯し、その罪によって死が入り込んだ。その罪は全ての人に及び、全ての人が死ぬことで人生を終わることになったと答えている。また、全ての人の罪が孕んでこの世の全ての悲嘆や苦悩を引き起こしているのであると記している。

 人は如何なる有様で死んだのかに強い関心を向ける。そして死に顔や死の形で大往生だったとか悲惨であったと判断する。しかし判断の根拠は明確でない。

 死に際して、人は何故に死ぬのだろうと問わない。人は生まれて死ぬと悟っているからであろうか。いやそうではなくて死に対しては抵抗できないのである。全ての人が死の力に打ちのめされて思考停止の状態になるのである。そして死に逝く者も立ち会う者も、絶望と悲しみの闇に覆われてしまうのである。

 唯一、宗教が死の力に抗って死の意味を語り死の悲しみに打ち勝つ希望の光を見せてくれるのである。人は何故死ぬのだろうか、死後はどうなるのだろうか、これらの問いに答えるのが諸宗教の根本的な任務となっている。

 私はキリスト者であるから聖書から答えを得ている。死と死後についての想念は、キリスト教においては終末論と言われている。

 私の終活は聖書に証言されている死の意味と死後のことをイエス・キリストにより確信することである。